天正10(1582)年の本能寺の変の直後、羽柴秀吉の正室おね(ねね)と母なかを長浜城から避難させた美濃国(岐阜県)の地侍の家臣、広瀬兵庫助に褒美として五百石の領地を与える-とする秀吉の文書が見つかり、滋賀県長浜市の長浜城歴史博物館が29日、発表した。江戸時代に書かれた写しが存在し、内容は知られていたが、兵庫助の子孫で東京に住む会社社長が、9月に博物館に寄託した。古文書は、おねらが長浜城に戻った同年6月19日付。「女性たちを逃がしてくれてうれしい」との内容で、秀吉直筆の花押もある。同月2日に起こった本能寺の変の翌日、おねら一行は、長浜城から美濃国広瀬村(現在の岐阜県揖斐川町坂内広瀬)に逃げ、警護した兵庫助の館にかくまわれて難を逃れたとされる。同博物館は「秀吉の家族が実際に逃げ、家臣が助けたことを裏付ける貴重な資料」としている。文書は11月11日から30日まで博物館で展示される。(産経WEST10月29日抜粋)
【今日の風景3】
なぞの多い『本能寺の変』の逸話のひとつである。
どうして明智光秀は、謀反をおこしたのか?
織田信長の死体が見つからないのはなぜか?
なぞだらけ。
それでも歴史は進んでゆく。
そもそも 織田信長も明智光秀も豊臣秀吉もなぞが多い。
だから歴史小説が売れる。
安土桃山時代・江戸時代・明治中期まで織田信長は、なにかと評判がわるい。
『信長公記』なんて信用されてない。
「うつけ」と「たわけ」の違いから軽蔑されていた節がある。
合戦もへたくそ。
だから今川義元のだまし討ち説が出てくる。
尾張の主要親族皆殺し説もそう。
くじ将軍足利義教のまねばっかり、天魔王もそう。
顔までそっくり。
どうして文武兼備の名門土岐氏明智光秀が、そんな信長の配下になったのかもナゾ。
秀吉の金につられたのか、足利将軍家のためか。
秋の夜長になぞがなぞを呼ぶ、あぁ。
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