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国内歴史

神在月の伝説通り?スルメイカ豊漁1万匹

神在月の伝説通り?スルメイカ1万匹、定置網に
 
島根県西ノ島町の浦郷湾の定置網に7日早朝、体長約20~25センチのスルメイカ約1万匹がかかっており、浦郷港に水揚げされた。

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 神在月にちなんだ伝説が再現されたかのような豊漁に、港は活気づいた。

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 湾内の通称「いか寄せの浜」は、たびたび大量のイカが打ち上げられた記録が残る。

2006年2月にも幅約20メートルにわたって、「イカが打ち上げられてじゅうたんのようになり、町民が手づかみした」(西ノ島町の担当者)という。

いか寄せの浜には、近くの神社に祭られる由良比女命(ゆらひめのみこと)が、神在月に出向いた出雲の国から戻り、浜で手を洗っていたところイカにかみつかれ、それをわびてイカの大群が浜に押し寄せるようになった、との伝説がある。

 出雲市斐川町の万九千まんくせん神社ではこの日が、出雲を後にする神々を送る「神等去出祭からさでさい」。

西ノ島町の担当者は「伝説通り、神様が帰るのに合わせて豊漁になったのかも」と話している。
 
(YOMIURI ONLINE;
ソース:http://www.yomiuri.co.jp/national/20151208-OYT1T50073.html





【今日の風景】

前記事『神在月の出雲に 八百万の神々、海より来たる』で紹介した出雲の神様の続きのおはなし。

旧暦10月17日(11月28日)に神様が出雲より各地にお帰りになる、それにちなんだ奇跡のおはなしでもあります。

西ノ島の由良比女神社は、『延喜式神名帳』には「元名 和多須神」とあり 大国主命の奥さん、須世理比売命の神社にも特定できるらしい。

何はともあれ凶兆ではありません、吉兆。

 
でもたぶんこの季節、ゴンドウクジラやシャチといった歯鯨が日本海に入り込んできて、丸々と太ったイカを海中の浅いところに追い込んで食べるんだと思います。

日本海の対岸の北朝鮮や中国の沿岸のどこかでも同じことが起こっていると予想できます。

それにしても鏡餅や熨斗にも何か繋がりそうな興味深い伝説とおはなし。

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ムーミンの訳者は女スパイ!?

ムーミンの訳者は女スパイ!? 日米開戦に猛反対した軍人の夫を支えた“激動の生涯”
 
 童話「ムーミン」の訳者は女スパイだった!?
――フィンランドの作家、トーベ・ヤンソンの名作として知られる「ムーミン・シリーズ」。
これを日本に紹介したのが翻訳家・小野寺百合子(1998年没、享年92歳)だ。エレン・ケイの「児童の世紀」(富山房百科文庫)、バルブロ・リンドグレンの「マックスのくまちゃん」(佑学社)など、日本では数少ない北欧・スウェーデンの書籍を翻訳したことで知られる。

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 百合子がスウェーデンに携わったのは、夫・信(まこと)の赴任先・ストックホルムへの同行がきっかけだ。
百合子の夫は、公使館に勤務するミリタリー・アタッシュ(軍人外交官)として、当時、北欧諸国では「欧州の日本スパイの親玉」と呼ばれた凄腕のスパイ、情報畑の陸軍軍人だった。
その活動を妻として支えたのが百合子、その人である。

 74年前の今日、1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争が開戦した。
これに先立って今の東京・三宅坂にあった軍中央には北欧・スウェーデンから約30通、ほぼ同じ内容の電報がたて続けに届けられた。

「日米開戦絶対不可ナリ――日本とアメリカの戦争は絶対に行ってはならない」

 こうした電報は、暗号に翻訳され中央に打電される。軍人外交官の妻である百合子は、暗号の翻訳と管理、電信係の仕事を担っていたという。

 1985年(昭和60年)に放映されたNHK特集「日米開戦絶対不可ナリ ~ 小野寺大佐発 ~ 至急電」のインタビューに応える百合子の映像が残されている。

「金庫とはどんなに精巧に作ったものでも、所詮、人間がつくったもの。
2時間あれば開き得る。
だから2時間以上の外出はしなかった。
昼はいいけれど、晩のご飯が向こう(スウェーデン)は長い。
だから暗号書など重要な書類を入れるそれ専用の腹巻を作り、帯の中に入れてました。
そうするとちっともわからない」(NHK特集「日米開戦絶対不可ナリ」から)

 戦前から戦中のスウェーデンは、各国のスパイが暗躍し、激しい情報戦が繰り広げられた。
その真っただ中に百合子もいた。
軍人外交官の妻として華やかながらも緊張感に満ちた当時の生活は、百合子の著書、「バルト海のほとりにて―武官の妻の大東亜戦争」(小野寺百合子著・朝日文庫)に詳しい。

<私は相変わらず夜は着物いってんばりで通したが、アフタヌーンドレスやスーツ、それに合わせた帽子や靴をつくらなければならない(中略)当時のディナーというのは夕方六時か六時半の招待で、お開きは十二時過ぎだった。サロンでの食前酒からはじまるが(以下、略)>

 着物いってんばり――暗号書を入れた腹巻きを帯の中に隠していたためである。
華やかなパーティーの社交の場、そこは各国の威信を担う外交官や軍人にとっては"情報戦"という名の戦場だ。同書には、そんな緊迫した様子もまた描かれている。

<私は夫人たちが時局について自分なりの意見をはっきりと持っていて、誰の前でもはばからず堂々と発言するのに驚いた。
(中略)日本の武官夫人がこう言っていたと言われては大変だからと自己弁護して、なるべく黙って聞いていた>

 百合子の夫・信は、当時の軍人には珍しい"非戦派"として知られている。「戦争は絶対にいけない」というのが信の口癖だったという。
「諜報の天才」と呼ばれた軍人外交官の信だが、北欧・スウェーデンにおける活動は、当時の中央ではほとんど評価されることはなかった。
信が送ってくる情報が「英米に傾きすぎ」というのがその理由だった。

 もし当時の軍中央が信の情報に耳を傾けていれば、広島・長崎の原爆投下、中国の残留孤児、シベリア抑留の悲劇もなかったかもしれないという歴史学者もいる。

 終戦後、日本に引き揚げた小野寺夫婦だが、引き揚げ船から日本に上陸すると同時に信は「戦犯容疑者」としてそのまま家族から引き離されGHQに連行される。そして百合子は上陸後、米軍の施設に収容される。

<婦人専用の建物の中に入れられ、一人一人になって衣服を全部脱がされ、ガウン一枚を着せられた。それから貴重品を隠し持っていないかの厳重極まる検査がはじまった>

 それから数カ月後、戦犯容疑の晴れた信が帰宅した。ここから、ようやく夫婦の戦後がはじまる。軍人の妻から民間人の妻へ。信は材木会社でトラックの上乗りを、百合子は婦人服の仕立てを行い生計を立てた。

 その後、夫の信はスウェーデン時代の知己とともに「日瑞貿易会社」を設立。再び、小野寺夫婦とスウェーデンの縁が繋がった。そして「ムーミン」シリーズをはじめ、数々の作品が日本に紹介される。

 平和な世界に生きるムーミン、だがこの作品を私たちに伝えた翻訳家・小野寺百合子の激動の生涯を知る人は少ない。
開戦の日の今日だからこそ、百合子が訳した平和な時代だからこそ読める名作を味わいたいものだ。

 なお来夏、この小野寺夫婦のスウェーデンの活動は、主演の薬師丸ひろ子が百合子役を、香川照之が信役を演じる終戦記念ドラマ「百合子さんの絵本」(NHK総合)の放映が決まっている。

※敬称略
(フリーランス・ライター・秋山謙一郎)

(dot.AERA12月8日;





【今日の風景2】

戦前の日本大使館・領事館には文官と武官の両方がいたとか。

日本大使館・領事館付きの軍士官の武官の仕事は、基本的に現地諜報活動であることも普通に良く知られたことだと。

ただスパイという言葉が、何を指すのかが不明です。

その妻が夫の仕事を知っていて当然だと思いますが、普通に考えると夫とともに外交的諜報活動に協力していてもまったく不自然ではありません。

戦前の武官ですから当然武器も携帯していたと考えられますし、仕事に危険が伴うことも充分承知していたでしょう。

さて其の方達が戦後公職を離れて、個人として再びスウェーデンとの交流の中で『ムーミン』を含めたかの国の本の翻訳を始められた。

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なにか夫人の心の流れていく様が想像できます。

74年前の今日未明、真珠湾攻撃により日本が太平洋戦争に突入していく日の話題にしては、何だかしっくりとこないものが残る気がします。

  


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「難波津の歌」全文木簡初出土、仮名文字「発信点」か

平仮名がまだ全国に広がっていない9世紀後半、平安京跡から出土した「(※)難波津の歌」が書かれた木簡は平仮名の完成形に近い字で書かれていた。

※難波津の歌
古今和歌集の仮名序で「おほささきのみかど(仁徳天皇)をそへたてまつれるうた」として紹介され、詠み人は王仁と謂われる短歌

難波津に  咲くやこの花  冬ごもり  今は春べと  咲くやこの花


作者は、都のメーンストリート、朱雀大路沿いに住んでいた人物で、当時の文化の最先端を走る皇族か貴族だったとみられている。

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 「井戸から木簡が出たとき、わずかに浮かび上がった字体から仮名と思いました。でも、それが難波津の歌とは…」と、発掘を担当した京都市埋蔵文化財研究所の南孝雄・担当係長は当時を振り返る。

 難波津の歌は当時、学問の初心者の手習いの手本や歌会の儀式などで登場したとされる。7世紀~9世紀後半の木簡や土器、瓦などが全国で38例確認されているが、歌が単独で書かれているのが通常。今回のように注釈のような文章が添えられていたのは初めてという。

 今回の木簡が出土した邸宅跡は朱雀大路沿いで、向かいには当時の歴代天皇が譲位後の離宮と定めた朱雀院があった。3年前に最古級の平仮名が書かれた土器が出土した藤原良相(よしみ)邸にも近い。

 木簡の調査にあたった京都大大学院の西山良平教授(日本古代・中世史)は木簡を記した人物について「平安宮に近い都の一等地。朱雀院に関係ある皇室あるいは貴族と考えられる」と話した。

木簡の文字は、しっかりとした筆致で、平仮名が誕生すると出てくる字と字を流れるようにつないだ「連綿体」に近い書体も確認できた。西山教授は「木簡の作者は藤原良相とも交流のあった一流の文化人。ここから全国に仮名文字が発信されたのだろう」と思いをはせる。

 10世紀に入ると、延喜5(905)年に、醍醐天皇の命で編纂(へんさん)された「古今和歌集」の序文に、連綿体による平仮名が登場する。今回の発見からは、万葉仮名から平仮名への変遷がうかがうことができるという。

 吉野秋二・京都産業大准教授(日本古代史)は「仮名の移行期に仮名で書かれた歌がほぼ完全な形で出た意義は大きい。今後の基礎史料になる発見だ」と話している。 

(産経WEST11月26日;




【今日の風景】

かなの歴史は古いようで案外新しい。

カタカナは、仏典の注釈を書くために発達したとか。

ひらがなは、私信(手紙)や物語の書写のために発達したとか。

万葉仮名がいつ成立したのかは、前記事『神在月の出雲に 八百万の神々、海より来たる』で触れましたように、大化の改新(乙巳の変)以降何者かの手で大半の古代の書物が失われたため推測しか出来ません。

でもそれらのことを踏まえても国語に対する無関心さは、戦後の国語教育の一番悪い部分が影響しているのかもしれません。

現在既に明治期の文豪の小説は、古典の部類に入るらしいですが、我々の世代からすれば普通に通俗小説として読んでいました。

そんな私も授業の国語が大嫌いでした。

文法を習っても例外が多すぎます。

解釈も画一的過ぎます。

口語の変化に国語学がついていけない。

ところで私、自分の五代前の先祖の戸籍を持っています。

変体仮名が結構使われている。

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種類はもっとたくさんあったようです。

戦前までは普通に使用されていました。

今も『そばや』、『しるこや』の看板は普通に変体仮名です。

尺貫法もそうですが、捨てる前にはちゃんと保存を前提にしておかないと、どこかの国みたいに自国文化を失う事になりますよ。


 
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神在月の出雲に 八百万の神々、海より来たる

旧暦10月10日にあたる21日夜、島根県出雲市大社町の稲佐の浜で、神迎かみむかえ神事が執り行われた。

 神職たちが、神在月の出雲に全国から集まった八百万やおよろずの神々を厳かに迎え入れた。

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 神事は稲佐の浜の弁天島近くで午後7時から行われ、白装束姿の神職たちが海に向かって何度も頭を下げ、祝詞を奏上した。
周辺には数千人の参拝者が集まり、御幣を掲げて祈りをささげたり、厳粛な雰囲気の神事を見守ったりしていた。
1歳の娘を連れて見守った兵庫県明石市の会社員(43)は「娘がこの厳かな雰囲気を分かるようになったら、また一緒に来たい」と話した。

 出雲大社に集まった神々は、人々の出会いなどを神議かみはかりにかけて決める。旧暦10月17日(28日)には、神等去出祭からさでさいが開かれ、神々は大社を後にするという。

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(読売オンライン11月23日;




【今日の風景】

神様が海からお出ましになるというのが、興味深い。

『出雲風土記』に登場する神様は、『日本書紀』『古事記』に登場する神様とはちょっと異なるらしい。

前記事『会津若松 末廣酒造で酒造り体験 海外メディア向けツアー』でも触れたが、倭の歴史は考えられている通説より遥かに古い可能性が高い。

今年は皇紀(神武天皇即位紀元)2675年というのもイイ線をいっているかもしれない。

ただはっきり言えるのは、天智天皇より前は連合政権であった可能性が非常に高いことである。

おおきみ(大王)という名前の日本の政権代表者。

そういう意味では大化の改新(乙巳の変)というのは、それ以前の歴史をほぼ抹殺するために実施されたのかもしれない。

蘇我蝦夷は、長男入鹿が殺害されたのを受けて『天皇記』『国記』を焼いて自害したとされる。

『国記』は船恵尺が火中の蝦夷邸宅から持ち出して難を逃れ、後に中大兄皇子に献上されたとするが、現存しない。

そもそもどうしてそういう国の根幹に関わる書物が、蘇我氏の手元にしかなかったのか?

『日本書紀』を編成する為にあったはずの日本の過去を記した膨大な書物はどこにいったのか?

例の稗田阿礼の覚えていた『帝紀』『旧辞』を太安万侶が『古事記』作製のために筆記したとされる話があるが、肝心の『帝紀』『旧辞』はどこへいったのか?

注意をして読めば『日本書紀』『古事記』の中の大王が必ずしも天皇制の天皇を指していないのが分かる。

姓が違うのにおくりな(諡号)をして、わざわざ天皇を名乗らせている。

今地方の古墳から続々と、文章を記した遺品が出ている。

いずれ3・4世紀頃の地方の様子を書いた木簡・竹簡が、大量に発見される古墳も出てくるだろう。

天皇家は日本人が尊敬し、源とする最も古い日本人の血脈のひとつである。

しかし神とされる日本中にいた日本人の祖先も確かにいたのである。

その祖先の御霊が今、伊勢ではなく出雲に集まっている。

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※画像はフリーを使用しています。


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会津と奈良 高僧・徳一が結ぶ"絆" 関係深化のシンポジウム

約1200年前に奈良から会津に赴き、仏教文化を伝えた高僧・徳一(とくいつ)を懸け橋とした会津と奈良の歴史、文化のつながりを考えるシンポジウム「奈良と会津1200年の絆」は21日、奈良市で開かれ、徳一の功績や仏都会津の歴史などを踏まえながら、会津と奈良の深い関わりを再認識した。

 震災や原発事故の影響が続く本県、会津の復興を支援しようと奈良の学識経験者や仏教関係者、会津の地域づくり団体が実行委員会をつくって開き、昨年11月に続いて2回目となった。

福島民友新聞社、読売新聞奈良支局など後援。実行委員長の西山厚帝塚山大教授と、赤坂憲雄県立博物館長がそれぞれ講演。両氏の対談も行われ、徳一が結ぶ会津と奈良の共通点を探り、一層の関係構築を確認した。福島民友新聞社からは五阿弥宏安社長が出席した。

 ●「仏都」の共通点探る "徳一の功績"再確認

 奈良市で21日開かれたシンポジウム「奈良と会津1200年の絆」では、「遠くて近い奈良と会津~文化の謎を探る旅」をテーマに、仏教史が専門の西山厚帝塚山大教授(62)、民俗学者の赤坂憲雄県立博物館長(62)が講演や対談を行い、聴衆は1200年の時を超えて徳一(とくいつ)に思いをはせた。

 講演では、西山氏が「仏法東漸(ぶっぽうとうぜん) 奈良からみちのくへ」のテーマ、赤坂氏が「司馬遼太郎 東北をゆく~会津のみち」と題して講演した。

 西山氏は仏教伝来のスローガンといえる「仏教は東へ」に基づき、奈良から会津など東北に仏教が波及した経緯を、徳一を題材に説明した。
 赤坂氏は、作家司馬遼太郎の紀行集「街道をゆく」に書かれた会津の記述を挙げながら、会津の仏教文化や精神性などを紹介した。

 対談は「奈良と会津、至上のシンパシー(共感)」と題して持論を展開。赤坂氏は「互いに仏都という点が共通点。会津に徳一がいたという奇跡を、もう一度掘り起こして意味付けを行う必要がある」と提案。
西山氏は「徳一は磐梯山噴火という大災害後に活発に活動した。約1200年後の福島は東日本大震災という災害に苦しんでいる。今こそ徳一の功績を見直す機会にあるのでは」と語った。

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(福島民友ニュース11月22日;



【今日の風景】

徳一(とくいつ)は、行基が死んだ天平勝宝元年(749年)に生まれたと推定される。

『南都高僧伝』に名を残し行基と同じく、後に菩薩と呼ばれている。

詳細な伝記はないが、様々な関係文書から彼の行動が推測できる。

法相宗の僧といわれているが、華厳宗総本山の東大寺の僧でもあったらしい。

藤原仲麻呂の六男・刷雄と同一視される記述も見られることより、藤原氏の氏寺法相宗総本山興福寺出身とも考えられる。

もし徳一が藤原仲麻呂の六男・刷雄であったならば既に、若くして唐への留学を果たしていた事になる。

藤原仲麻呂の四男という説もある。

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30歳過ぎ頃、陸奥・奥州への布教・勧進の旅に出たようだ。

それが、大同元年(806年)の磐梯山大噴火に出会い、会津周辺でその被災者の救済活動を行なうことになった。

現在の耶麻郡磐梯町あたりにその救済活動の拠点を設け、慧日寺(えにちじ;別称清水寺)とした。

後にここは寺僧300、僧兵数千、子院3,800を擁する巨大寺院として隆盛を極めることになる。

徳一は、学問僧としても一流であった。

伝教大師最澄、弘法大師空海(真言宗未決文)らに密教への疑問点を問い質す質問状を多数、会津周辺にいながら送っている。

また会津 勝常寺、常陸筑波山 中禅寺、西光院など寺院も多数建立している。

徳一は、行基や空也と並び賞されてもおかしくないくらいの偉人である。

しかし姿形も文書も直接には残されていない。

ただ徳一の墓と伝えられる五輪塔が今も 、慧日寺跡にあるようだ。


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※河沼郡湯川村 瑠璃光山勝常寺(徳一建立の寺) wikiより


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