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歴史

クリスマスの悪魔「クランプス」、米国で大流行

クリスマスの悪魔「クランプス」、米国で大流行
 
サンタクロースと一緒に現れる、おどろおどろしい姿の悪魔。その起源は?

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2014年、チェコのカプリツェで行われたショーで、クランプスの扮装をする男性。何世紀も前から残る伝承の存在であるクランプスは今、米国でにわかに人気を得ている。(Photograph by David W. Cerny, Reuters)
 

 「クランプス」という名前を聞いたことがあるだろうか。
オーストリアの民間伝承に登場する、半分ヤギ、半分悪魔の姿をした怪物のことだ。
クランプスは子供たちにプレゼントを配る聖ニコラウス(サンタクロースの起源といわれる人物)とは対照的に、悪い子供たちを叩いたり、連れ去ったり、さらには地獄へと引きずり込んだりする。

そのクランプスが今、米国でひっぱりだこの人気者となっている。先日ついに彼を主役にした映画まで公開された。(参考記事:「クリスマスの歴史とトリビア」)

 米国でクランプスが突如として脚光を浴びた理由について、アートディレクターのモンティ・ビーチャム氏は火付け役を自認している。
ビーチャム氏がクランプスを知ったのは、あるコレクターから、クランプスが描かれた19〜20世紀の郵便はがきを見せてもらったことがきっかけ。
その後彼は、自身が発行するコミック誌でクランプスはがきを紹介し、2004年と2010年には、それらを集めた本も出版した。

 1冊目の本を出して間もなく、ビーチャム氏のところにカリフォルニア州のギャラリーから連絡が入り、クランプスはがきの展覧会をやりたいとの提案を受けた。
「展覧会は大成功で、以来クランプスを題材にした展覧会のキュレーションを任されるようになったのです」。
そのあたりから、クランプスの人気は「雪だるま式に」高まっていったという。

 さて、それではこのクランプスの起源はどこにあるのだろうか。
 

●100年前に流行したクランプスのクリスマスはがき

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1911年頃に発行されたウィーンの郵便はがき。特徴的な長い舌で、クランプスが子供を誘惑している。伝承では、クランプスは手に持ったカバノキの枝で、悪い子供を打ち据えるとされている。(Photograph by Imagno, Getty)

 聖ニコラウスと対をなす恐ろしい存在といえば、クランプスの他にもさまざまなものがある。ドイツのベルシュニッケルやクネヒト・ループレヒト、フランスのハンス・トラップやペール・フエタールの他、オランダにもツヴァルテ・ピート(黒いピート)。顔を黒く塗るため、現在は人種差別的だとして議論の渦中にある)がいる。(参考記事:「欧州の祭りに登場する悪霊たち」)

 こうした存在の起源は、12月22日を祝祭の日としていた土着の習慣にある。
1年で夜が最も長いこの日は、後にクリスマスとして定着していった。この日、クランプスは聖ニコラウスとともに子供たちのところへやってきて、悪い子には厳しいお仕置きを与えた。

 クランプスのはがきが販売されるようになったのは、オーストリア政府が郵便はがきの生産管理を手放した1890年以降で、この商売は大いに繁盛した。
それから第一次大戦までの間に、ドイツの企業が国内やオーストリアなどで、クランプスのクリスマスはがきの販売を行った。

 子供向けのはがきには、恐ろしげなクランプスが子供たちを怖がらせたり、叩いたり、背中に担いだ籠に入れてさらったりしている絵が描かれている。
そして1903〜1904年頃には、早くも大人向けのはがきが登場した。
こうしたはがきにはクランプスが大人に罰を与えている絵柄もあったが、クランプスが女性をさらったり、女性に求愛をしているようなものも多かったという。

「ドイツでの郵便はがき市場は巨大でした。そこを狙って、女性を入れた図案のものも作られるようになったのでしょう」

変わり続けるクリスマス

 オーストリアやドイツの一部では、クランプスナハト(クランプスの夜。12月5日)にクランプスに扮して子供たちを怖がらせる19世紀の風習が今も残っている。一方、クランプスラウフ(クランプスの走り)は、酒に酔った男たちが恐ろしげな扮装をして通りを駆けまわるというもので、こちらは見るからに大人向けだ。

 現在米国で行われているクランプス関連の行事は、ほとんどが仮装をしてお酒を飲むといった、大人を対象としたものだ。
こうした過ごし方は実は、子供とプレゼントを中心とした行事になる前の、古い時代の米国のクリスマスによく似ている。

「1800年代以前には、クリスマスのことを家で過ごす静かな休日だと思っている人など、ほとんどいなかったでしょう」。ピュリツァー賞にノミネートされた歴史書『The Battle for Christmas(クリスマスのための闘い)』の作家、スティーブン・ニッセンボーム氏はそう語る。「クリスマスといえばにぎやかなお祭り騒ぎをする日で、いわばハロウィン、大晦日、マルディグラ(謝肉祭のカーニバル)を混ぜ合わせたようなものでした

 当時は仮装をした人たちが家々のドアを叩いて酒を要求し、出さなければ騒ぐぞと脅すことがごく当たり前に行われていたという。
現代の子供たちがハロウィンにやる「トリック・オア・トリート」は、この習慣から健全な部分だけを残したものだとも言える。

 クリスマスの形は時代とともに変化していくものであり、この先、クランプスが一般の人々にも受け入れられるほど有名になれば、流行に敏感な人たちからは、逆にそっぽを向かれるだろうことは想像に難くない。
クランプスはすでに映画の主役まで務めているのだから、あるいは今がまさに人気の絶頂なのかもしれない。(参考記事:「世界の最も激しい三つの祭り(竹沢うるま)」)

(NATIONAL GIOGRAPHICS12月9日;





【今日の風景】 
 
朝からちょっと変な、でも面白いはなし。

ナショナル・ジオグラフックスもなかなか。

じじぃと目の付けどころがいっしょ、えっへん。

還暦ハゲじじぃも、なかなかやるじゃん。

前記事 『227歳サンタさん死亡?』をまず見てください。

ドイツの黒いサンタ『クネヒト・ループレヒト』 が出てくる。

でもクランプスについての私の考えは、少し違うんです。

クランプスは、タロットカードの 大アルカナの15番に描かれている悪魔バフォメットの姿そのものです。

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そして、

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サバトの山羊の上級六大悪魔である地獄の大将バフォメット。
※サバト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%90%E3%83%88_(%E9%AD%94%E5%A5%B3)

悪魔信仰です。

でもこれも実は、日本を含めて世界中にあります。

まずヤギや羊は、北半球では人類が文化を持つ以前から家畜と存在してしていました。

ただ平地の牛・馬に較べて山岳地域に生息しているヤギ・羊は、雑食性で気性が荒く生殖行動も激しい。

その姿に原始人類は、自分達の生殖行動の弱さに対する理想を感じたのでしょう。

収穫祭など世界中のお祭りの基本は、自然神と先祖神への収穫のお礼と、その後の無礼講です。

今でいう無礼講・乱交パーティ。

相当長い間世界中で、それは許されてきていました。

乳児の死亡率が30%を超える原始時代です。

生殖は大事な儀式であり、次の時代を支える出産への希望の礎でした。

日本でも農村部では、万葉の時代から戦前まで普通でした。

それが社会と宗教が発達すると禁止されることになります。

『モーゼの十戒』を見れば分かります。

「汝姦淫することなかれ」です。

結婚が社会性を帯びて契約制度となり、乳児の死亡率が社会制度・医療技術の発達とともに低くなると、収穫祭の後の無礼講・乱交パーティも禁止されてゆきます。

そしてその象徴だったヤギや羊(たぶんその生殖行動の激しさから神様扱いだった)も、悪魔の象徴にされてしまいます。

そういう変遷を辿った中東・欧州社会と較べてアジアの国々はまだ、大らかだったのでしょう。

レヴィ・ストロースなんかの本を見ればよく分かります。

悪魔?

違います。

クランプスは大昔の神様のなごりであり、かつての人類の長い歴史の残像です。 



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神在月の伝説通り?スルメイカ豊漁1万匹

神在月の伝説通り?スルメイカ1万匹、定置網に
 
島根県西ノ島町の浦郷湾の定置網に7日早朝、体長約20~25センチのスルメイカ約1万匹がかかっており、浦郷港に水揚げされた。

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 神在月にちなんだ伝説が再現されたかのような豊漁に、港は活気づいた。

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 湾内の通称「いか寄せの浜」は、たびたび大量のイカが打ち上げられた記録が残る。

2006年2月にも幅約20メートルにわたって、「イカが打ち上げられてじゅうたんのようになり、町民が手づかみした」(西ノ島町の担当者)という。

いか寄せの浜には、近くの神社に祭られる由良比女命(ゆらひめのみこと)が、神在月に出向いた出雲の国から戻り、浜で手を洗っていたところイカにかみつかれ、それをわびてイカの大群が浜に押し寄せるようになった、との伝説がある。

 出雲市斐川町の万九千まんくせん神社ではこの日が、出雲を後にする神々を送る「神等去出祭からさでさい」。

西ノ島町の担当者は「伝説通り、神様が帰るのに合わせて豊漁になったのかも」と話している。
 
(YOMIURI ONLINE;
ソース:http://www.yomiuri.co.jp/national/20151208-OYT1T50073.html





【今日の風景】

前記事『神在月の出雲に 八百万の神々、海より来たる』で紹介した出雲の神様の続きのおはなし。

旧暦10月17日(11月28日)に神様が出雲より各地にお帰りになる、それにちなんだ奇跡のおはなしでもあります。

西ノ島の由良比女神社は、『延喜式神名帳』には「元名 和多須神」とあり 大国主命の奥さん、須世理比売命の神社にも特定できるらしい。

何はともあれ凶兆ではありません、吉兆。

 
でもたぶんこの季節、ゴンドウクジラやシャチといった歯鯨が日本海に入り込んできて、丸々と太ったイカを海中の浅いところに追い込んで食べるんだと思います。

日本海の対岸の北朝鮮や中国の沿岸のどこかでも同じことが起こっていると予想できます。

それにしても鏡餅や熨斗にも何か繋がりそうな興味深い伝説とおはなし。

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ムーミンの訳者は女スパイ!?

ムーミンの訳者は女スパイ!? 日米開戦に猛反対した軍人の夫を支えた“激動の生涯”
 
 童話「ムーミン」の訳者は女スパイだった!?
――フィンランドの作家、トーベ・ヤンソンの名作として知られる「ムーミン・シリーズ」。
これを日本に紹介したのが翻訳家・小野寺百合子(1998年没、享年92歳)だ。エレン・ケイの「児童の世紀」(富山房百科文庫)、バルブロ・リンドグレンの「マックスのくまちゃん」(佑学社)など、日本では数少ない北欧・スウェーデンの書籍を翻訳したことで知られる。

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 百合子がスウェーデンに携わったのは、夫・信(まこと)の赴任先・ストックホルムへの同行がきっかけだ。
百合子の夫は、公使館に勤務するミリタリー・アタッシュ(軍人外交官)として、当時、北欧諸国では「欧州の日本スパイの親玉」と呼ばれた凄腕のスパイ、情報畑の陸軍軍人だった。
その活動を妻として支えたのが百合子、その人である。

 74年前の今日、1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争が開戦した。
これに先立って今の東京・三宅坂にあった軍中央には北欧・スウェーデンから約30通、ほぼ同じ内容の電報がたて続けに届けられた。

「日米開戦絶対不可ナリ――日本とアメリカの戦争は絶対に行ってはならない」

 こうした電報は、暗号に翻訳され中央に打電される。軍人外交官の妻である百合子は、暗号の翻訳と管理、電信係の仕事を担っていたという。

 1985年(昭和60年)に放映されたNHK特集「日米開戦絶対不可ナリ ~ 小野寺大佐発 ~ 至急電」のインタビューに応える百合子の映像が残されている。

「金庫とはどんなに精巧に作ったものでも、所詮、人間がつくったもの。
2時間あれば開き得る。
だから2時間以上の外出はしなかった。
昼はいいけれど、晩のご飯が向こう(スウェーデン)は長い。
だから暗号書など重要な書類を入れるそれ専用の腹巻を作り、帯の中に入れてました。
そうするとちっともわからない」(NHK特集「日米開戦絶対不可ナリ」から)

 戦前から戦中のスウェーデンは、各国のスパイが暗躍し、激しい情報戦が繰り広げられた。
その真っただ中に百合子もいた。
軍人外交官の妻として華やかながらも緊張感に満ちた当時の生活は、百合子の著書、「バルト海のほとりにて―武官の妻の大東亜戦争」(小野寺百合子著・朝日文庫)に詳しい。

<私は相変わらず夜は着物いってんばりで通したが、アフタヌーンドレスやスーツ、それに合わせた帽子や靴をつくらなければならない(中略)当時のディナーというのは夕方六時か六時半の招待で、お開きは十二時過ぎだった。サロンでの食前酒からはじまるが(以下、略)>

 着物いってんばり――暗号書を入れた腹巻きを帯の中に隠していたためである。
華やかなパーティーの社交の場、そこは各国の威信を担う外交官や軍人にとっては"情報戦"という名の戦場だ。同書には、そんな緊迫した様子もまた描かれている。

<私は夫人たちが時局について自分なりの意見をはっきりと持っていて、誰の前でもはばからず堂々と発言するのに驚いた。
(中略)日本の武官夫人がこう言っていたと言われては大変だからと自己弁護して、なるべく黙って聞いていた>

 百合子の夫・信は、当時の軍人には珍しい"非戦派"として知られている。「戦争は絶対にいけない」というのが信の口癖だったという。
「諜報の天才」と呼ばれた軍人外交官の信だが、北欧・スウェーデンにおける活動は、当時の中央ではほとんど評価されることはなかった。
信が送ってくる情報が「英米に傾きすぎ」というのがその理由だった。

 もし当時の軍中央が信の情報に耳を傾けていれば、広島・長崎の原爆投下、中国の残留孤児、シベリア抑留の悲劇もなかったかもしれないという歴史学者もいる。

 終戦後、日本に引き揚げた小野寺夫婦だが、引き揚げ船から日本に上陸すると同時に信は「戦犯容疑者」としてそのまま家族から引き離されGHQに連行される。そして百合子は上陸後、米軍の施設に収容される。

<婦人専用の建物の中に入れられ、一人一人になって衣服を全部脱がされ、ガウン一枚を着せられた。それから貴重品を隠し持っていないかの厳重極まる検査がはじまった>

 それから数カ月後、戦犯容疑の晴れた信が帰宅した。ここから、ようやく夫婦の戦後がはじまる。軍人の妻から民間人の妻へ。信は材木会社でトラックの上乗りを、百合子は婦人服の仕立てを行い生計を立てた。

 その後、夫の信はスウェーデン時代の知己とともに「日瑞貿易会社」を設立。再び、小野寺夫婦とスウェーデンの縁が繋がった。そして「ムーミン」シリーズをはじめ、数々の作品が日本に紹介される。

 平和な世界に生きるムーミン、だがこの作品を私たちに伝えた翻訳家・小野寺百合子の激動の生涯を知る人は少ない。
開戦の日の今日だからこそ、百合子が訳した平和な時代だからこそ読める名作を味わいたいものだ。

 なお来夏、この小野寺夫婦のスウェーデンの活動は、主演の薬師丸ひろ子が百合子役を、香川照之が信役を演じる終戦記念ドラマ「百合子さんの絵本」(NHK総合)の放映が決まっている。

※敬称略
(フリーランス・ライター・秋山謙一郎)

(dot.AERA12月8日;





【今日の風景2】

戦前の日本大使館・領事館には文官と武官の両方がいたとか。

日本大使館・領事館付きの軍士官の武官の仕事は、基本的に現地諜報活動であることも普通に良く知られたことだと。

ただスパイという言葉が、何を指すのかが不明です。

その妻が夫の仕事を知っていて当然だと思いますが、普通に考えると夫とともに外交的諜報活動に協力していてもまったく不自然ではありません。

戦前の武官ですから当然武器も携帯していたと考えられますし、仕事に危険が伴うことも充分承知していたでしょう。

さて其の方達が戦後公職を離れて、個人として再びスウェーデンとの交流の中で『ムーミン』を含めたかの国の本の翻訳を始められた。

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なにか夫人の心の流れていく様が想像できます。

74年前の今日未明、真珠湾攻撃により日本が太平洋戦争に突入していく日の話題にしては、何だかしっくりとこないものが残る気がします。

  


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価値2兆円超?沈没財宝船の発見!

価値2兆円超?沈没財宝船の発見!
 
南米コロンビアのフアン・マヌエル・サントス大統領(64)は5日、307年前に英国艦隊の攻撃によって
コロンビア沖のカリブ海で沈んだスペイン海軍のガレオン船(大型帆船)「サンホセ号」の船体を発見したと発表した。

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 大統領は「人類史上、最も価値ある発見物だ」と力説。サンホセ号には大量の金貨や宝石類が積まれていたとみられ、海底に眠る財宝の価値は最大で170億ドル(約2兆900億円)との見方もある。

■価値は2兆円規模!?

サンホセ号が発見されたのは、コロンビア北部の港町、カルタヘナ近海の海底。現地メディアによると、カルタヘナで記者会見したサントス大統領は「発見は、われわれの海中の文化遺産にとって歴史的な出来事だ。
 
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 今後、慎重に船体や積載物の引き揚げを進め、将来的にはこれらを展示する博物館をカルタヘナに建てたい」と興奮気味に語った。

AFP通信によると、サンホセ号の捜索はトレジャーハンターらにより数十年にわたって行われ、その間、多くの沈没船が見つかったが、サンホセ号の沈没地点だけは確定できていなかった。

見つかった船体は海底で横倒しになった状態で、銅製の大砲に刻まれていたユニークなイルカの図柄がサンホセ号であると特定する決め手になったという。

米大陸の植民地で得た財宝の類をスペイン王フェリペ5世のもとに運ぶ船団の主船だったサンホセ号は1708年6月、財宝を奪取しようとする英艦隊との戦闘の末、約600人の乗組員らとともに撃沈された。
 
当時、欧州では、スペインの王位にフランスのブルボン家からフェリペ5世が迎えられたことをめぐって、「スペイン・フランス対英国・オランダ・オーストリア」の構図でスペイン継承戦争(1701~14年)が戦われていた最中で、スペインと英国は敵対関係にあった。

積んでいた財宝は、古文献などからの推定によると、金貨約1100万枚、プラチナ約2トン、大型収納箱約120個分のエメラルドをはじめとする宝石類…などとみられている。

■最初は「折半」の取り決め

1622年に現在の米フロリダ沖でハリケーンに遭って沈没した同じスペインの帆船「ヌエストラ・デ・アトーチヤ号」の財宝(約40点)が今年8月、競売にかけられ、合計約250億円で落札されている。サンホセ号の場合は、質量ともにこれを大きく上回っているため、もし競売となれば、文字通り天文学的な値がつくと予想される。

ただ、引き揚げられる財宝類がすんなりとコロンビア政府のものとなるかどうかは、予断を許さない。
 
今回の発見場所はもともと、米国のサルベージ会社「シー・サーチ・アーマダ(SSA)」が1981年に「多分ここにサンホセ号が眠っている」(結果的に的中)として、コロンビア政府に探索許可を求めていた。
 
当初、コロンビア政府は、見つかった場合の財宝類の取り分を同額で折半としていたが、
後にSSAの取り分は5%と変更。これに抗議したSSAはコロンビアと米国で法廷闘争に訴え、ほぼ30年にわたって争われてきたからだ。米国では4年前にSSAの敗訴が決定したが、コロンビアではまだ係争中だ。

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沈没した財宝船の発見は歴史ロマンをかき立てるが、現実の世界でカネがからむと、話は単純ではなさそうだ。
 
(Sankei Biz12月7日;
ソース:http://www.sankeibiz.jp/express/news/151207/exd1512070001001-n1.htm





【今日の風景2】

二兆円という金額が、個人には想像もつきません。

やはりこれだけ大きなお金だと揉めますね。

コロンビア政府も必死でしょう。

 
年末も近く、ボーナスもそろそろ、今週くらいでしょうか。

うちは弱小個人経営のお店だから隙間風が吹くくらいで、懐もさみしい・・・。

妻はサラリーウーマンで、ルンルンでお友達と電話で忘年会の相談をしているようです。

神頼み お店在庫と冬の空・・・、あぁっ。





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「難波津の歌」全文木簡初出土、仮名文字「発信点」か

平仮名がまだ全国に広がっていない9世紀後半、平安京跡から出土した「(※)難波津の歌」が書かれた木簡は平仮名の完成形に近い字で書かれていた。

※難波津の歌
古今和歌集の仮名序で「おほささきのみかど(仁徳天皇)をそへたてまつれるうた」として紹介され、詠み人は王仁と謂われる短歌

難波津に  咲くやこの花  冬ごもり  今は春べと  咲くやこの花


作者は、都のメーンストリート、朱雀大路沿いに住んでいた人物で、当時の文化の最先端を走る皇族か貴族だったとみられている。

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 「井戸から木簡が出たとき、わずかに浮かび上がった字体から仮名と思いました。でも、それが難波津の歌とは…」と、発掘を担当した京都市埋蔵文化財研究所の南孝雄・担当係長は当時を振り返る。

 難波津の歌は当時、学問の初心者の手習いの手本や歌会の儀式などで登場したとされる。7世紀~9世紀後半の木簡や土器、瓦などが全国で38例確認されているが、歌が単独で書かれているのが通常。今回のように注釈のような文章が添えられていたのは初めてという。

 今回の木簡が出土した邸宅跡は朱雀大路沿いで、向かいには当時の歴代天皇が譲位後の離宮と定めた朱雀院があった。3年前に最古級の平仮名が書かれた土器が出土した藤原良相(よしみ)邸にも近い。

 木簡の調査にあたった京都大大学院の西山良平教授(日本古代・中世史)は木簡を記した人物について「平安宮に近い都の一等地。朱雀院に関係ある皇室あるいは貴族と考えられる」と話した。

木簡の文字は、しっかりとした筆致で、平仮名が誕生すると出てくる字と字を流れるようにつないだ「連綿体」に近い書体も確認できた。西山教授は「木簡の作者は藤原良相とも交流のあった一流の文化人。ここから全国に仮名文字が発信されたのだろう」と思いをはせる。

 10世紀に入ると、延喜5(905)年に、醍醐天皇の命で編纂(へんさん)された「古今和歌集」の序文に、連綿体による平仮名が登場する。今回の発見からは、万葉仮名から平仮名への変遷がうかがうことができるという。

 吉野秋二・京都産業大准教授(日本古代史)は「仮名の移行期に仮名で書かれた歌がほぼ完全な形で出た意義は大きい。今後の基礎史料になる発見だ」と話している。 

(産経WEST11月26日;




【今日の風景】

かなの歴史は古いようで案外新しい。

カタカナは、仏典の注釈を書くために発達したとか。

ひらがなは、私信(手紙)や物語の書写のために発達したとか。

万葉仮名がいつ成立したのかは、前記事『神在月の出雲に 八百万の神々、海より来たる』で触れましたように、大化の改新(乙巳の変)以降何者かの手で大半の古代の書物が失われたため推測しか出来ません。

でもそれらのことを踏まえても国語に対する無関心さは、戦後の国語教育の一番悪い部分が影響しているのかもしれません。

現在既に明治期の文豪の小説は、古典の部類に入るらしいですが、我々の世代からすれば普通に通俗小説として読んでいました。

そんな私も授業の国語が大嫌いでした。

文法を習っても例外が多すぎます。

解釈も画一的過ぎます。

口語の変化に国語学がついていけない。

ところで私、自分の五代前の先祖の戸籍を持っています。

変体仮名が結構使われている。

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種類はもっとたくさんあったようです。

戦前までは普通に使用されていました。

今も『そばや』、『しるこや』の看板は普通に変体仮名です。

尺貫法もそうですが、捨てる前にはちゃんと保存を前提にしておかないと、どこかの国みたいに自国文化を失う事になりますよ。


 
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