《 がんを消す 「夢の薬」 オプジーボをみんなで使えば国が持たない 》長寿は万人の夢だった。だから医学の日進月歩も歓迎されたが、がんを消す「夢の薬」が高価なあまり国が亡びてしまっては、元も子もない。命をつなぐべき医学が、命を追い詰める現状をレポートする短期集中連載の第1回。今、あるべき死生観を問う対談である。これまでとは違う仕組みでがんを消す“夢の薬”の登場に、今、世の中が沸いている。その名はオプジーボ(一般名はニボルマブ)。免疫チェックポイント阻害剤と呼ばれる新しいタイプの分子標的薬で、もともと体に備わっている免疫力を利用してがん細胞を消すという。簡単に言うと、仕組みはこうだ。免疫細胞にはがん細胞やウイルスを攻撃するための“アクセル”と、相手が味方だった場合に攻撃を止める“ブレーキ”が備わっている。がん細胞は免疫細胞にブレーキをかけさせながら成長するが、オプジーボはそのブレーキを解除し、免疫細胞の攻撃力を取り戻させてくれるのだ。2014年9月に発売された際は、皮膚がんの一種である悪性黒色腫(メラノーマ)向けだったが、昨年12月、日本人の肺がんの85%を占めるという非小細胞肺がん向けにも保険適用が認められた。もうこれで、がんの完治も夢ではない――。世間はそう騒いでいる。ところが昨年11月下旬、厚生労働省がオプジーボの肺がんへの使用を了承するのに先立って開催された、日本肺癌学会学術集会のシンポジウムは、この“夢の薬”に対し、「今日は気分がよくなる話は一切ありません。会場にお集まりいただいた皆さんは、絶望して帰っていただきたい」という苛烈な言葉で始まった。その発言の主こそが、里見清一氏である。“夢の薬”になぜ絶望するのか。実は、肺がん患者がオプジーボを使うと、年間3500万円かかる。費用の大半は国庫から供出されるため、“夢の薬”によって国家財政が破綻しかねないのだ。桁外れに高価な薬を際限なく使い、そのツケを次世代に負わせていいのだろうか。問われているのは、われわれの死生観かもしれない。里見 今日も財務省に呼ばれ、財政制度等審議会の財政制度分科会で、薬価の高騰や肺がん治療のコストについて話をしてきたんです。曽野 3500万円かかるお薬について、お役所はどうおっしゃったんですか。里見 私がまず話したのはこういうことです。その割合は3割か2割、あるいは1割かもしれませんが、この薬が効く人は確実にいます。で、効く人には2週間に1回使うことになっていますが、どこまで続ければよいかという目安はありません。体重60キロの人が1年間使うと3500万円かかります。曽野 そもそも、今使っている抗がん剤は、あまり効かないんですね。里見 はい。完治させることはありません。進行がんの患者さんに使って一定の効果はあっても、数カ月くらいです。だから長く使わずにすむということもある。また、抗がん剤の一種の分子標的薬は、どんな患者に使えるかが事前にわかりますが、これも治すところまでいきません。一方、オプジーボは効果がある人には確かに効く。治るかもしれない。そのかわり、どういう患者に効くか事前に判定できないので、使う患者を選べず、また、いつやめていいかもわかりません。肺がんの患者さんは13万人いると言われます。仮に5万人に使ったとして、1年間で1兆7500億円。日本の医療費は2013年度で40兆610億円。そのうち薬剤費が約10兆円ですが、そこにポンッと2兆円近くのしかかってきたら、国家財政がもちません。■費用はほとんど国が負担里見 高齢になるとがんが増え、われわれが診ている肺がん患者さんも、75歳ぐらいが平均的です。みなさん、75歳や80歳になっても、長生きしたいとおっしゃるので、年間3500万円かかる薬を使います。誰に効くかわからないので、患者さんが使ってほしいと言う以上、使わざるをえません。高額療養費制度があるので、費用はほとんど国が負担します。使った患者さんの最高齢は100歳だそうですが、100歳の人を101歳にするために、国が3500万円を支払う。人類史上、こんな贅沢があったでしょうか。
(デイリー新潮より抜粋;ソース:http://www.dailyshincho.jp/article/2016/05160300/?all=1)
【今日の風景】
原文は、ソース元をご覧下さい、読むと目が点になります。
オプジーボについてご存じない方は拙過去記事をご覧下さい。
※ 参考 拙記事『夢のがん特効薬「オプジーボ」はこんなに効く!』
曽野綾子先生と里見医師の主張は、はっきりと間違っています。
特に「お国に迷惑をかけてはいけない」というセリフは、現代国家の行政制度に対する冒涜です。
国民が、国民の作り上げた制度を利用することを否定すれば、誰の何のための制度なのでしょうか?
また、老齢者の生きる意欲を否定するならどうして自分から率先して死を選ばないのか?
キリスト教徒だから自分は自殺することは出来ないというのは理由になりません。
それなら他者にそれを強要すること自体、不合理で理不尽な考えです。
前にも申し上げましたが、生きたいという意欲は人としての生活全般の根底にある活力の源です。
また、薬の値段にしても自由経済の根幹原理で需要が増加すれば供給も増加し、当然価格も安くなります。
薬品メーカーがあまり安くしないのなら、法律でそれを規制することも出来ます(どういう訳かアメリカではあまりそういう規制が少ないようですが)。
どうして薬の価格が高いからもっと安くしないとダメだという主張にならないのかが不思議です。
自分は宗教上の理由で死を選ぶことは出来ないが、私以外の他の人はじじぃ・ばばぁになれば死ぬ義務があるという主張にどれほどの人が賛同するでしょうか。
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