平仮名がまだ全国に広がっていない9世紀後半、平安京跡から出土した「(※)難波津の歌」が書かれた木簡は平仮名の完成形に近い字で書かれていた。

※難波津の歌
古今和歌集の仮名序で「おほささきのみかど(仁徳天皇)をそへたてまつれるうた」として紹介され、詠み人は王仁と謂われる短歌

難波津に  咲くやこの花  冬ごもり  今は春べと  咲くやこの花


作者は、都のメーンストリート、朱雀大路沿いに住んでいた人物で、当時の文化の最先端を走る皇族か貴族だったとみられている。

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 「井戸から木簡が出たとき、わずかに浮かび上がった字体から仮名と思いました。でも、それが難波津の歌とは…」と、発掘を担当した京都市埋蔵文化財研究所の南孝雄・担当係長は当時を振り返る。

 難波津の歌は当時、学問の初心者の手習いの手本や歌会の儀式などで登場したとされる。7世紀~9世紀後半の木簡や土器、瓦などが全国で38例確認されているが、歌が単独で書かれているのが通常。今回のように注釈のような文章が添えられていたのは初めてという。

 今回の木簡が出土した邸宅跡は朱雀大路沿いで、向かいには当時の歴代天皇が譲位後の離宮と定めた朱雀院があった。3年前に最古級の平仮名が書かれた土器が出土した藤原良相(よしみ)邸にも近い。

 木簡の調査にあたった京都大大学院の西山良平教授(日本古代・中世史)は木簡を記した人物について「平安宮に近い都の一等地。朱雀院に関係ある皇室あるいは貴族と考えられる」と話した。

木簡の文字は、しっかりとした筆致で、平仮名が誕生すると出てくる字と字を流れるようにつないだ「連綿体」に近い書体も確認できた。西山教授は「木簡の作者は藤原良相とも交流のあった一流の文化人。ここから全国に仮名文字が発信されたのだろう」と思いをはせる。

 10世紀に入ると、延喜5(905)年に、醍醐天皇の命で編纂(へんさん)された「古今和歌集」の序文に、連綿体による平仮名が登場する。今回の発見からは、万葉仮名から平仮名への変遷がうかがうことができるという。

 吉野秋二・京都産業大准教授(日本古代史)は「仮名の移行期に仮名で書かれた歌がほぼ完全な形で出た意義は大きい。今後の基礎史料になる発見だ」と話している。 

(産経WEST11月26日;




【今日の風景】

かなの歴史は古いようで案外新しい。

カタカナは、仏典の注釈を書くために発達したとか。

ひらがなは、私信(手紙)や物語の書写のために発達したとか。

万葉仮名がいつ成立したのかは、前記事『神在月の出雲に 八百万の神々、海より来たる』で触れましたように、大化の改新(乙巳の変)以降何者かの手で大半の古代の書物が失われたため推測しか出来ません。

でもそれらのことを踏まえても国語に対する無関心さは、戦後の国語教育の一番悪い部分が影響しているのかもしれません。

現在既に明治期の文豪の小説は、古典の部類に入るらしいですが、我々の世代からすれば普通に通俗小説として読んでいました。

そんな私も授業の国語が大嫌いでした。

文法を習っても例外が多すぎます。

解釈も画一的過ぎます。

口語の変化に国語学がついていけない。

ところで私、自分の五代前の先祖の戸籍を持っています。

変体仮名が結構使われている。

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種類はもっとたくさんあったようです。

戦前までは普通に使用されていました。

今も『そばや』、『しるこや』の看板は普通に変体仮名です。

尺貫法もそうですが、捨てる前にはちゃんと保存を前提にしておかないと、どこかの国みたいに自国文化を失う事になりますよ。


 
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