旧暦10月10日にあたる21日夜、島根県出雲市大社町の稲佐の浜で、神迎かみむかえ神事が執り行われた。

 神職たちが、神在月の出雲に全国から集まった八百万やおよろずの神々を厳かに迎え入れた。

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 神事は稲佐の浜の弁天島近くで午後7時から行われ、白装束姿の神職たちが海に向かって何度も頭を下げ、祝詞を奏上した。
周辺には数千人の参拝者が集まり、御幣を掲げて祈りをささげたり、厳粛な雰囲気の神事を見守ったりしていた。
1歳の娘を連れて見守った兵庫県明石市の会社員(43)は「娘がこの厳かな雰囲気を分かるようになったら、また一緒に来たい」と話した。

 出雲大社に集まった神々は、人々の出会いなどを神議かみはかりにかけて決める。旧暦10月17日(28日)には、神等去出祭からさでさいが開かれ、神々は大社を後にするという。

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(読売オンライン11月23日;




【今日の風景】

神様が海からお出ましになるというのが、興味深い。

『出雲風土記』に登場する神様は、『日本書紀』『古事記』に登場する神様とはちょっと異なるらしい。

前記事『会津若松 末廣酒造で酒造り体験 海外メディア向けツアー』でも触れたが、倭の歴史は考えられている通説より遥かに古い可能性が高い。

今年は皇紀(神武天皇即位紀元)2675年というのもイイ線をいっているかもしれない。

ただはっきり言えるのは、天智天皇より前は連合政権であった可能性が非常に高いことである。

おおきみ(大王)という名前の日本の政権代表者。

そういう意味では大化の改新(乙巳の変)というのは、それ以前の歴史をほぼ抹殺するために実施されたのかもしれない。

蘇我蝦夷は、長男入鹿が殺害されたのを受けて『天皇記』『国記』を焼いて自害したとされる。

『国記』は船恵尺が火中の蝦夷邸宅から持ち出して難を逃れ、後に中大兄皇子に献上されたとするが、現存しない。

そもそもどうしてそういう国の根幹に関わる書物が、蘇我氏の手元にしかなかったのか?

『日本書紀』を編成する為にあったはずの日本の過去を記した膨大な書物はどこにいったのか?

例の稗田阿礼の覚えていた『帝紀』『旧辞』を太安万侶が『古事記』作製のために筆記したとされる話があるが、肝心の『帝紀』『旧辞』はどこへいったのか?

注意をして読めば『日本書紀』『古事記』の中の大王が必ずしも天皇制の天皇を指していないのが分かる。

姓が違うのにおくりな(諡号)をして、わざわざ天皇を名乗らせている。

今地方の古墳から続々と、文章を記した遺品が出ている。

いずれ3・4世紀頃の地方の様子を書いた木簡・竹簡が、大量に発見される古墳も出てくるだろう。

天皇家は日本人が尊敬し、源とする最も古い日本人の血脈のひとつである。

しかし神とされる日本中にいた日本人の祖先も確かにいたのである。

その祖先の御霊が今、伊勢ではなく出雲に集まっている。

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※画像はフリーを使用しています。


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