約1200年前に奈良から会津に赴き、仏教文化を伝えた高僧・徳一(とくいつ)を懸け橋とした会津と奈良の歴史、文化のつながりを考えるシンポジウム「奈良と会津1200年の絆」は21日、奈良市で開かれ、徳一の功績や仏都会津の歴史などを踏まえながら、会津と奈良の深い関わりを再認識した。

 震災や原発事故の影響が続く本県、会津の復興を支援しようと奈良の学識経験者や仏教関係者、会津の地域づくり団体が実行委員会をつくって開き、昨年11月に続いて2回目となった。

福島民友新聞社、読売新聞奈良支局など後援。実行委員長の西山厚帝塚山大教授と、赤坂憲雄県立博物館長がそれぞれ講演。両氏の対談も行われ、徳一が結ぶ会津と奈良の共通点を探り、一層の関係構築を確認した。福島民友新聞社からは五阿弥宏安社長が出席した。

 ●「仏都」の共通点探る "徳一の功績"再確認

 奈良市で21日開かれたシンポジウム「奈良と会津1200年の絆」では、「遠くて近い奈良と会津~文化の謎を探る旅」をテーマに、仏教史が専門の西山厚帝塚山大教授(62)、民俗学者の赤坂憲雄県立博物館長(62)が講演や対談を行い、聴衆は1200年の時を超えて徳一(とくいつ)に思いをはせた。

 講演では、西山氏が「仏法東漸(ぶっぽうとうぜん) 奈良からみちのくへ」のテーマ、赤坂氏が「司馬遼太郎 東北をゆく~会津のみち」と題して講演した。

 西山氏は仏教伝来のスローガンといえる「仏教は東へ」に基づき、奈良から会津など東北に仏教が波及した経緯を、徳一を題材に説明した。
 赤坂氏は、作家司馬遼太郎の紀行集「街道をゆく」に書かれた会津の記述を挙げながら、会津の仏教文化や精神性などを紹介した。

 対談は「奈良と会津、至上のシンパシー(共感)」と題して持論を展開。赤坂氏は「互いに仏都という点が共通点。会津に徳一がいたという奇跡を、もう一度掘り起こして意味付けを行う必要がある」と提案。
西山氏は「徳一は磐梯山噴火という大災害後に活発に活動した。約1200年後の福島は東日本大震災という災害に苦しんでいる。今こそ徳一の功績を見直す機会にあるのでは」と語った。

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(福島民友ニュース11月22日;



【今日の風景】

徳一(とくいつ)は、行基が死んだ天平勝宝元年(749年)に生まれたと推定される。

『南都高僧伝』に名を残し行基と同じく、後に菩薩と呼ばれている。

詳細な伝記はないが、様々な関係文書から彼の行動が推測できる。

法相宗の僧といわれているが、華厳宗総本山の東大寺の僧でもあったらしい。

藤原仲麻呂の六男・刷雄と同一視される記述も見られることより、藤原氏の氏寺法相宗総本山興福寺出身とも考えられる。

もし徳一が藤原仲麻呂の六男・刷雄であったならば既に、若くして唐への留学を果たしていた事になる。

藤原仲麻呂の四男という説もある。

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30歳過ぎ頃、陸奥・奥州への布教・勧進の旅に出たようだ。

それが、大同元年(806年)の磐梯山大噴火に出会い、会津周辺でその被災者の救済活動を行なうことになった。

現在の耶麻郡磐梯町あたりにその救済活動の拠点を設け、慧日寺(えにちじ;別称清水寺)とした。

後にここは寺僧300、僧兵数千、子院3,800を擁する巨大寺院として隆盛を極めることになる。

徳一は、学問僧としても一流であった。

伝教大師最澄、弘法大師空海(真言宗未決文)らに密教への疑問点を問い質す質問状を多数、会津周辺にいながら送っている。

また会津 勝常寺、常陸筑波山 中禅寺、西光院など寺院も多数建立している。

徳一は、行基や空也と並び賞されてもおかしくないくらいの偉人である。

しかし姿形も文書も直接には残されていない。

ただ徳一の墓と伝えられる五輪塔が今も 、慧日寺跡にあるようだ。


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※河沼郡湯川村 瑠璃光山勝常寺(徳一建立の寺) wikiより


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